アウトプットのプロセス

言語をどのようにしてアウトプットしているのか理論的に示したモデルがあり、これは「スピーチプロダクション・モデル」と呼ばれます。

 

スピーチプロダクション・モデルでは下記のようなプロセスを経て言語がアウトプットされます:

1. 概念化(conceptualizer)

2. 形式化(formulator)

3. 調音化(articulator)

 

概念化で伝えたいメッセージが生成されます。この段階では概念のレベルですが、つぎの形式化で生成されたメッセージが言葉へと変えられます。言葉は長期記憶から取り出されることになります。そして、調音化によって言語化された情報が音声となってアウトプットされます。

 

母語ではこのプロセスがほとんど無意識でおこなわれます。しかし、第二言語ではプロセスが自動化されていないため、学習者はプロセスの自動化を目指して学習をすすめることになります。

 

 

アウトプットする勇気

インプットが重要だと言うのは誰しもが認めるところで、インプットによって学習がスタートしますが、その効果はアウトプットによって検証され、効果的なフィードバックを得ることができます。つまり、アウトプットも同様にとても重要だということです。

 

インタラクション仮説という説があり、これによると学習者はインプットした情報を利用して目標言語での「意味交渉」をおこなうことでさらなるインプットを促すことができるとしています。

要するに、実際に英語を使ってコミュニケーションをとりましょう。それで正解不正解の雰囲気を感じ取り、正しいインプットへとつなげましょう、という学習です。

 

また、インタラクション仮説における意味交渉だけに限らず、1人で音読や英作文をしてもアウトプットとなります。言語習得で誰しもが必ず通る道として以下があります:

暗記(限定的な言語使用)

規則抽出(創造的な言語使用、過度の一般化)

規則学習+習熟(柔軟な言語使用)

 

これは「暗記して確実な文をアウトプットする」から始まり、「自分でインプットした情報を組み合わせてアウトプットする」を経て、「より自然なアウトプット」へとつながる流れです。

そして、自分で組み合わせる段階で必ずミスが発生します。これはどうしようもないことです。

 

人はミスを繰り返しながら自然なアウトプットへ至るのです。ミスを恐れずアウトプットする勇気が英語習得に必要だということですね。

 

 

 

臨界期仮説 〜子どもに有利な学習環境と大人に有利な学習環境〜

言語学習に有利なのは子どもたちだという仮説があります。12〜13歳の思春期までの子どものほうが英語の習得が早いというやつです。これは「臨界期仮説」と呼ばれます。

 

じつは子供と大人では得意とする学習が異なります。子どもが得意なのは「暗示的学習」(implicit learning)と呼ばれる学習で、無意識で言語を習得していきます。

一方、大人が得意なのは「明示的学習」(explicit learning)と呼ばれる意識的な学習です。

 

暗示的学習に欠かせないのが大量のインプット。赤ん坊が母語を習得するため1万1520時間という膨大なインプットをおこなっているのが良い例です。そして、大量のインプットが生まれる環境は英語が使われる国に移住する等の英語環境に身を置くことです。

 

明示的学習は少ないインプット(といっても2200時間くらいは必要ですが)で英語を習得します。文法等を意識的に学び、中間言語を効率よく構築し、アウトプットを繰り返す。こちらは日本で英語を学習するような、外国語環境において効果を発揮します。

 

つまり、子どもは英語環境で、大人は外国語環境でそれぞれ強みを持っているということです。もちろんインプットは最重要なので、早く学習をスタートして多くのインプットをおこなうことは英語習得に多大な影響を与えます。

ただ、大人になってから英語を学習してもしょうがないと考えるのはやめましょう。適切な時間、適切な学習をおこなえば、大人になってからでも十分英語習得は可能なのです。

 

 

 

インプットのコツ

まずもってインプットは理解可能であることが重要です。理解できないインプットをどんなにやっても「気づき」につながらないため、たいした効果は見込めません。

 

また、インプットは自分が興味をもっている分野でおこなうのが良いでしょう。学習者がインプットをおこなううえで「社会的距離」(social distance)が重要な役割を果たしています。目標言語の社会にたいして、心理的、文化的な距離を感じていれば学習効率が落ちます。このような非言語的な側面にも注意すべきです。

 

一般にインプット処理は視覚83%、聴覚11%、触覚3%、味覚2%、嗅覚1%と言われています。視覚が大部分を占めるためどうしても文字情報に偏りがちですが、その他のインプットを排除するのはもったいない。音読などで他の感覚をつかったインプットを心がけましょう。

 

 

質の高いインプット

英語の習得は、第二言語習得の認知プロセス(気づき→理解→内在化→統合)をいかにスムーズにおこなえるかにかかっています。そこで、認知プロセスの効率化にとってどのようなインプットが必要になるのか考えてみましょう。

 

1) 気づき
気づきを喚起するために、学習者の注意を引きつけることがポイントになります。いろんな方法はありますが、まとまった文章を読む前に、基本となる文法や語彙などを記憶しておくことで、文章を読んでいても学習対象の文法に注意が向かいます。

要は、大量のインプットをおこなう際の事前準備ですね。

 

2) 理解・内在化
気づきの次は理解ですが、理解には浅い理解と深い理解があります。浅い理解は意味だけを理解すること。深い理解は形式や機能も理解することです。

形式(どんな形で)、意味(どんな意味で)、機能(どんな場面で)が同時に処理されるようインプットの質を高めるのです。

これは、具体的には単語を覚える際に例文や関連する英文記事を読むというメソッドで対応できます。実践的な知識は形式、意味、機能を含むからです。また、英語ネイティブとの英会話やメール交換によって誤用を指摘してもらうことも理解・内在化への効率的なインプットになります。

 

3) 統合
統合はインプットした情報を長期記憶にとどめ、アウトプットできるように自動化していくプロセスです。短期記憶から長期記憶へ移す際に必要になることを考えれば良いでしょう。答えは「反復」です。短期記憶されたものを何回も繰り返すことで長期記憶へと移されるのです。

 

上記を意識しうまくインプットに組み込むことができれば、質の高いインプットになるでしょう。

 

 

インプットの役割

英語の習得において、インプットは必ず必要です。第二言語習得の認知プロセスを簡略化すると下記のようになります:

インプット

中間言語

アウトプット

 

そして、気づき→理解→内在化がおこなわれる中でどんどん情報は抜けていってしまいます。

インプットの量よりも中間言語の量は少なくなる。

さらに、アウトプットは中間言語からおこなわれますが、すべての中間言語をアウトプットできるわけではないため、中間言語>アウトプットとなります。つまりこういうこと:

インプット>中間言語>アウトプット

 

認知プロセスが完了するまでにインプットした情報は抜け落ちてしまうため、さらに多くのインプットでカバーしなければならないということです。

 

逆に言えば、すべてはインプットから始まるということで、膨大なインプットによってのみ、はじめて第二言語習得というゴールが近づきます。

 

また、インプットは正解=学習対象である言語そのものです。つまり、構築した中間言語がどのくらい正しいのか判定するための模範解答となります。そして、インプットは脳内に英語回路をつくりだす役割もあります。これは「予測文法」と呼ばれ、決まった文脈や状況において、次にくる英語を予測することができるようになります。

 

このように、インプットは言語習得のスタートであり、模範解答であり、予測能力を身につけるための訓練でもあるのです。

 

 

英語習得は何時間かかるのか

第二言語習得に必要なのはインプットです。そこでどのくらいのインプットが必要なのか考えるために、まずは第一言語母語)の習得に私たちがどのくらいの時間をかけたのか見てみましょう。

 

幼児は5歳になるまでにおよそ1万7520時間も母語によるインプットを受けていると言われています。これは途方もない時間で、たとえば第二言語習得のために1日3時間毎日勉強したとして約16年かかる計算になります。

 

私たちは第一言語習得に膨大な時間をかけますが、第二言語習得ではどのくらいの時間が必要とされているのでしょう。

 

これは学習対象となる言語と母語の距離、言語間の距離によって異なります。日本語ネイティブが英語を習得する場合、言語間の距離がもっとも離れている言語のため、習得には2200時間かかるとされています。

第一言語にかける時間よりずいぶんと少ないですね。

 

次に学校教育でおこなわれる英語の学習時間はどうなのでしょうか。

中高大を合わせた平均英語学習時間は1120時間です。英語習得にかかるとされている時間の半分くらい。

 

英語を習得するためには、残り半分を自分の力で学習する必要があるということです。ただ、それをやっても母語の習得にかけた時間とは比べもにになりません。私たちはそれだけ膨大なインプットをおこない、今のように自由自在に言葉を操れるようになっているわけです。